9/27/2004

父帰る、を観て来た。


親戚の家から、出張の間、ローランドのMIDIキーボードを借りていた。最後の週末なので、返却のため行ってきた。自宅の片付けもあるため日曜は早めに戻るという計画にしたため、昼に焼肉をもてなしてくれた。
夜にイトコと話をし、翌日はイトコの希望で「父帰る」というロシア映画を観る分かれることに、調べると新宿は武蔵野映画館で上映されているということで、都合も良い、新宿東口直ぐにある武蔵野映画館は先日訪れた武蔵野ホールの系列でもある。
タルコフスキーの再来とキャッチコピーがかかれているとおり、水をモチーフにしたシーンが多く、また、ストーカーとも人物構成が共通しているが、展開はきびきびとしていて、また、キリスト教的イメージを重ねた演出も丁寧に伝わりやすく作られており、フィルムの色や構図も美しい、当然、タルコフスキーとは別物として捉えるべきで、他の作品などを見ていなくても伝わるように、独立、完結して制作されているあたり、サンプリングやリスペクトに頼って、予備知識なしには面白み半減といった感のある昨今の映画からすると見やすい映画だと思う。おそらくはキリスト教的モチーフなどが汲み取ることができなかったとしても、映像の心地よさだけで、充分に見ごたえがあるだろう。
一緒に行ったイトコによると
「広告用のポスターを後で見て驚いたのですが、
あの映画で兄(アンドレイ)役をしていたウラジーミルは、映画公開前に不慮の事故で亡くなっていたそうで、その場所というのが、ロケ地の湖だったそうで、それを知って、特別な意識を持ったそうだ。湖は映画内でも鮮烈な死のイメージを植え付けるだけに、そこで実際の死が存在しているということは虚しいような、奇妙な感じがある
作品中で死と向かい合うのは父親と弟であり、死んだ父、死を恐れる弟ではなく、兄がというところが、死を平等に分配してしまっていて、運命的であると思いたくなってしまう。映画の中で兄も死を意識するエピソードがあれば助かったとかね。考えてみてもおそいけど
そう思うとキリストの最後の7日間と重ね合わせるなど、構造主義的な部分も感じられるが、それが主眼ではないというバランス感覚があると思う。この作品が処女作であるそうで、それ以前はテレビなどの仕事をしていた人だそうだ。ソ連時代の映画監督は佳作であるか、体制よりで駄作であるかのいずれかが多い印象があるのですが、本作の監督が今後、どのような作品を発表していくのか、非常に楽しみだ。
東欧の映画は、社会主義の思想弾圧と検閲と戦い、その中で自己表現を成功させるため、暗喩を多用し、また、それによって読み取れるメッセージも形而上学的である場合が多い、解答を観客に問う。見る人の創造力に刺激的だと思う。ヤンシュワンクマイエルとテリーギリアムの対談によると、暗号解読といった側面があったそうだ。こうした、演出技術はKGBなきロシアでは回りくどい演出は無用かもしれませんが、暗号化することによって、映画としての独特な面白味を作り出すことができるのでやはり、今後も生きるセンスだと思います。
例えば、パンフレットでも触れられていることではあるのですが、イワンという登場人物の名前はロシア男性のもっとも一般的な名前であり、その名前を採用することによって、「となりのイワン」や「となり町のイワン」でも当てはまる。不特定多数の一般的なロシア男性を示すことが可能なので、この映画はイワンを主人公とすることで、ロシア人の少年時代に共通している感覚を描いている。または、イワンとすることによって、イワンとは誰かを不明にさせているのだと思います。狂言の太郎冠者、次郎冠者と近い効果ですね。形而上学的なキャスティング効果があるのかもしれない。
イトコの情報で掲示板の書き込みで、数年前に発表された映画と似ている、という書き込みがあったのですが、映画は製作期間が長いので、製作中に類似した映画が発表されてしまうこともあるし、その時に製作者が意図的に作品を変更するのがはたして「良い作品」へとつながるのかも難しいだろう。それまでにもすでに莫大な時間とコストがかかっているはずなのだから。一方で、投稿者の気持ちとしては、類似しているという映画に対して特別な思い入れがあり、それを世の中のより多くの人に知ってもらう機会としてあえて発言しているのか、それとも、義憤なのかもしれない、
「七人の侍」と、「荒野の7人」のように意図的に制作されたとしても、両方が名作となるケースもありますから、似ているから良し悪しということだけで、評価を下すのはあえて当作品を楽しまないように見る技術であり、気をつけなくてはならない、逆にその映画自体もいくつかの受賞評価があるので、いい映画なのかもしれないが「盗作の元」という偏見をもって観る視点しかしばらくは持てないと思う。

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